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『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑪』



※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。

滝のように降りつける雨の中、襲いかかる毒蛾妖怪の鞭。
逃げて逃げて・・・怖(こわ)かった、怖(おそ)ろしかった。
ぬかるんだ地面に足を取られ滑って転んだ。
泥をかぶったけど、そんな事、構っていられなかった。
まるで猫に弄(もてあそ)ばれる鼠みたいに追い回されて・・・。
気が付けば目の前に川が流れてた。
それも、いつも見慣れた小川じゃない。
雨で増水して川幅が倍以上に拡がってた。
流れ込む泥水のせいで水の色は濁って黄土色に変わり始めてた。
大雨で増水した川の流れは怖ろしく速かった。
ビシッ、ほんの一瞬だった。
川に気を取られてたあたしの顔の右側を鞭が打ち据えた。
その反動であたしは増水する川に落ちてしまって。
水の中は冷たかった。
濁った水は視界が悪くて何も見えない。
黄色・・・ううん、違う、泥を薄めた薄茶色の水。
ドッと鼻や口に水が入り込んできた。
咽(むせ)て咽(むせ)て苦しくて。
泳げないあたしは必死にもがいてもがいて。
やっと頭を水の上に出した瞬間、目の前には太い丸太が!
激しい痛みと衝撃だけを覚えてる。
その後は・・・何も・・覚えて・・・ない。
何も・・見えない・・・聞こえない・・・真っ暗・・だっ・・た・・・
 

「御方さまっ!」
 

筆頭女房の松尾が血相を変えて飛び込んできた。
常日頃、冷静な松尾が、こうまで取り乱すとは一体!?
 

「どうした、松尾、何事だ?」
 

狗姫が訝(いぶか)しんで声を掛ければ返ってきたのは容易ならざる答え。
 

「りんさまの容態がっ!」
 

「「何っ!?」」
 

狗姫と殺生丸が同時に声を発して駆け出した。
向かうのは当然、りんが臥(ふ)している部屋である。
簡素ながら趣きのある小部屋にりんは寝かされていた。
御典医の如庵が、りんの手を取り脈を測(はか)っている。
 

「如庵、りんの様子は!?」
 

眉を顰(ひそ)めた如庵が狗姫を見て首を振る。
 

「つい今しがた、脈が途絶えました」
 

如庵の返答を信じられずに、狗姫が、殺生丸が叫ぶ。
 

「何だとっ!?」 「馬鹿なっ!?」
 

驚愕する狗姫と殺生丸に如庵が説明する。
 

「恐らく・・・りんさまは“冥の闇”に呑まれたのではないかと」
 

狗姫が如庵の言葉に鋭く反応する。
 

「“冥の・・闇”だと!」
 

「はい、御方さまならば御存知でしょう。以前、伺(うかが)ったお話では、りんさまは冥府から甦った経験が二度あるとのこと。最初は殺生丸さまの天生牙で、二度目は御方さまの冥道石で。一度だけでも滅多にない冥界からの蘇生。それを信じられないことに二度も経験されていると。本来ならば、りんさまは死者として魂が転生の為の輪廻の輪に組み込まれていた筈の御方。そのような尋常ならざる蘇生を経験をしているりんさまは普通の人間と違い、心の中の闇、所謂(いわゆる)冥界に繋がる“冥の闇”に非常に惹(ひ)き込まれやすいのです」
 

驚愕から素早く立ち直った狗姫と殺生丸が如庵の言葉に噛み付く。
 

「「ならば、どうすればよいのだっ!?」」
 

「御方さま、首から下げておられるその首飾り、中央に嵌め込まれた宝石は確か冥道石にございましたな」
 

狗姫の胸元に飾られた黒い石を如庵がジッと仔細(しさい)あり気に見詰めた。
 

「如何にも。それで、この冥道石が何だと・・・。ああっ、そうかっ!判ったぞ、如庵」
 

即座に如庵の意向を汲み取った狗姫は素早く冥道石の首飾りを外し、りんの胸元に置いた。
すると冥界に通じる宝石は、たちどころに反応を見せた。
眩(まばゆ)い光を周囲に放射し始めたのだ。
暫らく光を発した後、冥道石の輝きは徐々に収まり元の黒い石に戻った。
それと同時に、りんが息をスゥッと吸い込み呼吸を再開した。
トクッ・・トクッ・・トクン・・トクン・・心臓が鼓動を刻み出した。
青白い肌に血色が戻り頬に赤味が注(さ)す。
仮死状態だった身体に生気が宿る。
そして、ゆっくりと目を開けた。
 

「「りんっ!」」
 

狗姫が、殺生丸が、愛しい娘の名を呼ぶ。
 

「お・・お母・・さま・・・殺生・・丸・・さま・・・」
 

りんが少し擦(かす)れた声で狗姫と殺生丸を呼ぶ。
 

「りん、思い出したのだな。よし、もう大丈夫だ。松尾、如庵」
 

「「はい」」
 

口角をクッキリと上げた狗姫が松尾や如庵を伴(ともな)い部屋から出て行く。
三年ぶりに再会した殺生丸とりんを二人きりにしてやろうとの母親ならではの配慮である。
りんが殺生丸を見て、はにかみながら嬉しそうに微笑んだ。
 

「殺生丸・・さま・・・」
 

「・・・りん・・」
 

殺生丸は、りんを、喰い入るように、いや、それこそ貪(むさぼ)るように見詰めていた。
無理もない、焦がれに焦がれた愛しい娘と、やっと三年ぶりに再会できたのだ。
一見、無表情ながら金色の目の奥には紛れもなく狂おしいほどの喜びが躍(おど)っている。
殺生丸が心の底から欲して止(や)まない唯一無二の存在、りん。
一年前、殺生丸は反魂香(はんごんこう)を扱う方斎の易占により漸(ようや)く、りんが無事だという確証を得た。
しかし、殺生丸が安堵したのも束の間、いつまで待っても待ち人は現われず、焦燥は日毎(ひごと)に強まり本当に逢えるのだろうかと疑心を募(つの)らせる日々が続いていた。
そんな殺生丸の苦悩の日々が遂に終わりを告げたのだ。
りんが失踪して以来、殺生丸の胸に巣喰い続けた“虚無”という名の空虚は本物のりんを目にして跡形もなく雲散霧消(うんさんむしょう)した。
三年前に比べ稚(いとけな)い面影を残しつつも愛らしく可憐な美少女に成長したりん。
りんの甘く馨(かぐわ)しい匂いがフワリと殺生丸の鋭敏な鼻腔を擽(くすぐ)る。
無条件で惹き付けられる艶(つや)やかな匂いを殺生丸は胸一杯に吸い込んだ。
“りん”そのものと言ってもよい匂いに殺生丸は陶然(とうぜん)と酔い痴れた。
“戦慄の貴公子”と謳(うた)われた歴代最強の大妖怪の胸を、今、満たすのは奔流のように溢れ出す熱く激しい歓喜の想いだった。         

                      了
 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑩』



※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。


昏(くら)い漆黒の深淵、心の中の深層部分、無意識の海の中にりんは漂っていた。
ゆらゆらと揺れる心地好い波は傷付き疲れた心に慰撫と安寧(あんねい)をもたらす。
 

『・・・ズッとここに居たい』
 

りんが、そう思った時、不意に二匹の蝶が現われた。
色鮮やかな翅(はね)に幻惑の目を持つ孔雀蝶。
ヒラヒラと舞い飛ぶ蝶が意識を失う前のりんの記憶を再現させる。
蝶に魅入られ足を運んだ先で見た宴の様相。
妖火の篝火(かがりび)が焚かれる中、浮かび上がる夥(おびただ)しい数の妖々(ひとびと)。
その中には、大好きなお母さまの狗姫(いぬき)と優しい松尾さま、いつもお土産をくれるお庭番の権佐、旧知の女官衆が揃っていた。
そして、少し離れた場所に立っていたスラリと丈高い白銀の髪の青年。
 

『・・・あの妖(ひと)は誰?』
 

お母さまに良く似た男の妖(ひと)、額の三日月も長い白銀の髪も同じ。
でも、顔の妖線は、お母さまと違って二本。
りんが不思議に思う暇もなく老妖怪が襲い掛かってきた。
長い牙と爪を剥(む)きだし耳まで裂けた口から涎(よだれ)を垂らした半化けの怖ろしい姿。
血走った眼は憎悪に狂い理性を失って暴走し始めている。
野望を打ち砕かれた老妖怪に残っているのは執拗なまでに凶暴な獲物に対する惨殺の意思のみ。
残虐な牙と爪が、容赦なく、りんを引き裂こうと迫ってくる。
恐怖に捉われ地面に縫い付けられたように動けないりん。
 

『殺されるっ!』
 

そう思った瞬間、りんが思い出したのは嘗(かつ)ての記憶。
あれは・・・そう、旅をしてた頃より、もっと前、狼に喉を噛み切られ殺された時の・・・
記憶が次から次へと奔流のように流れ込み甦(よみがえ)る。
ビシュッ、瞬(またた)きにも満たぬ刹那、稲妻のように駈け寄った白銀の妖(ひと)が刀を振るい暴漢を一気に袈裟掛(けさが)けに斬り捨てた。
りんを襲おうとした妖怪が目の前から消えていく。
ガッ、ガガガガガガガガガガガガガ・・・・
微細な小爆発が数限りなく発生して男の身体を極限まで粉砕していく。
りんの目の前で老妖怪は跡形もなく消滅した。
あの刀を・・・爆砕牙を・・振るえるのは・・こんな事が出来る・・のは・・・
 

「殺・・生・・・丸・・さま・・・」
 

ああ・・そうだ・・・思い出した。
三年前、あたしは、隻眼の巫女、楓さまに預けられ人界で暮らしてたんだ。
本当のお婆ちゃんみたいに優しかった楓さま、女好きだけど親切な法師さまと退治屋をしてた珊瑚さん、子狐妖怪の七宝ちゃん、半妖の犬夜叉さま、やっと三年ぶりに村に戻ってきたかごめさま。
それから、退治屋修行に出かけ滅多に村に戻らない琥珀と雲母。
三年間、楓さまの村で優しいあの人達と暮らしてた。
殺生丸さまは三日おきに村へ逢いに来てくださってた。
あれは、殺生丸さまにお逢いした次の日の事だった。
見たこともない綺麗な蝶を追いかけて何時の間にか川の側まで来てた。
そしたら、いきなり雨が激しく降り始めて急いで家に戻ろうとしたら・・・。
 

『嫌っ! 怖い! 思い出したくない!』
 

りんは両腕で頭を抱え縮こまって必死に思い出すのを拒もうとした。
小さな身体が小刻みに震えている。
無理もない、思い出せば、また当時の恐怖と痛みが甦る。
すると蝶の姿がフッと消えた。
代わりに現われたのはポッと柔らかな淡い光。
それは墨を溶かし込んだように暗い闇の中で優しく灯(とも)り、りんの心を慰める。
 

『・・・蛍?』
 

見上げれば光は五つある。
五匹の蛍が励ますようにフワフワとりんの周りを飛んでいる。
光の粒子が、まるで音を発するかのようにさんざめく。
リン、リン、リン、リン、リンと唯ひとつの音を紡(つむ)ぐように。
 

『もしかして・・・おっ父(とう)? おっ母(かあ)? 兄ちゃんたち?』
 

りんの呼びかけに答えるかのように光が一斉に点滅する。
蛍の光に熱は殆どない。
なのに、りんを照らす光は限りなく優しく温かかった。
恐怖が薄らいで記憶が戻ってくる。
りんを襲ったのは女のような顔をした蛾の妖怪だった。
赤、青、黄、緑、毒々しい原色の化粧で彩(いろど)られた白い顔、背中に生えた大きな翅。
豪雨の中、ニヤニヤと笑いながら女顔の妖怪が口にした台詞が一字一句違(たが)わず甦る。
 

「フ~~ン、西国王になった殺生丸さまが人間の女にケタ惚(ぼ)けてるって聞いたから、どんな妙齢の美女かと思いきや、こんな色気もへったくれもない小娘とはね。焼きが回ったのかな、殺生丸さま。以前、俺が粉かけた時は、それはもう、ゾクゾクするような冷たい目で毒華爪(どっかそう)を喰らわしてくれたのにさ。あん時は、流石の俺も死ぬんじゃないかと思ったよ。毒負けしちゃってさ。本当、つれない御方だよね。まっ、そこが良いんだけどさ。とびっきり綺麗で凍りつきそうなほど冷たくて怖ろしい。ウ~~ン、堪(たま)らない、痺(しび)れるね~~。とまあ、そんな訳で、お嬢ちゃん、俺に取っちゃアンタは恋敵だ。悪いが此処で死んでもらうよ。今回の仕事も都合よく溺死に見せかけて殺せって依頼だし、『一石二鳥』って、この事だよな。そうそう、俺は“毒蛾の蛾々”って云うの。自分を殺す相手の名前くらい知っておきたいだろう。ウン、俺って親切だよな」
 

そして、言い終わった後、毒蛾の蛾々は鞭を振るい逃げ惑うりんを川へと誘導したのだった。


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑪』に続く

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑨』



※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。

天空に浮かぶ巨大な城を時ならぬ衝撃が襲う。
ドオォ-----------------------------------------------ン!
バチッ!バシッ!バリバリッ!ババババッ!
すわっ、戦争かっ!?
凄まじい物音が鳴り響く。
同時にビリビリと震動する城内。
何があったのだろう。
松尾が音のした方を見遣って口を開いた。
 

「御方さま、あれは!?」
 

狗姫(いぬき)が舌打ちしながらぼやく。
 

「チッ、殺生丸め、結界を打(ぶ)ち破りおったな。全く堪え性のない。一体、誰に似たのやら」
 

「・・・・・・・・・」
 

内心、『貴女さまにに瓜二つです』と思いつつも口にはしない賢明な松尾であった。
程なくバタバタと騒々しい足音が廊下から聞こえてきた。
 

「申し上げます、御方さま。西国王、殺生丸さま、火急の御用ありとお越しに・・・」
 

そう御注進する衛士(えじ)達の後からスッと姿を現したのは、つい今し方、報告したばかりの御仁、西国王、殺生丸その妖(ひと)であった。
常ならば秀麗な容貌に悠揚迫らざる物腰で周囲の羨望と憧憬を一身に集めるはずの御方。
だが、今は眉間に皺をよせ帯電した雷のようにピリピリと張り詰めた気を全身に纏(まと)っておられる。
わずかでも触れたら、即刻、落雷の憂き目に遭うのではないかと誰もが恐れ戦(おのの)くほどに。
西国王の総身から漂う余りにも剣呑な雰囲気に百戦錬磨の兵(つわもの)達でさえ腰が引けてしまっている。
緊迫する雰囲気の中、対峙する王太后の狗姫と西国王の殺生丸。
長い白銀の髪、金色の眼(まなこ)、圧倒的なまでの美貌、真に良く似た母子である。
長身の殺生丸に対し母の狗姫は二寸(約6cm)ほど低いが、それでも女としては相当に高い。
明らかに違うのは両名の頬に走る朱の妖線のみである。
狗姫の妖線が一筋に対し殺生丸は二筋。
徐(おもむろ)に殺生丸が口を開いた。
 

「・・・りんは?」
 

「部屋で休んでおる」
 

そのまま匂いを頼りに、りんの居る部屋へ向かおうとする息子を母のi狗姫が引き止める。
 

「待て、殺生丸。結界を力任せに破るような非礼を働いておきながら挨拶もなしか」
 

ピタリと歩みを止めた殺生丸が母に向き直って問い質す。
 

「ならば訊(たず)ねよう。何故・・・三年もの間、あれを匿(かくま)いながら私に知らせなかった?」
 

殺生丸の目が完全に据(す)わっている。
相手の返答如何(いかん)では唯ではおかない積りだろう。
中央の瞳孔と虹彩を残し瞳が真っ赤に染まる。
頬に走る朱の妖線も大きく太く変化する。
それと同時にグワッと妖気が膨(ふく)らみ周囲を圧する。
小物ならば立っていられない程の純度の高い妖気が放射された。
しかし、狗姫は碌(ろく)に慌てもせず『柳に風』と殺生丸の妖気を受け流す。
その様子は実に自然で然(さ)り気ない。
 

「フゥッ、痴(し)れ者が。そんな事も判らんのか。考えてもみろ、殺生丸。仮に、もし、そなたに知らせたとしよう。するとどうなる?そなたのことだ。りんが無事と知れば矢も盾もたまらず此処に逢いに来るだろう。さすれば遠からず、りんの存在が敵に知れ渡るだろう事は必定。そして又しても付け狙われる羽目になっただろう。既に、一度、しくじっている。二度目は絶対に仕損じることのないよう相手も万全を期して掛かってくる。どうして、そんな危険を、わざわざ冒す必要があるのだ」
 

狗姫の指摘にハッとする殺生丸。
 

「それに『敵を欺くには、まず味方から』という。何としても豺牙(さいが)を油断させる必要があったのだ。奴は狡賢い上に怖ろしく用心深い男だからな。今回の『りん殺害未遂』の証拠、あの髪紐についても、あ奴が、りんの殺害に成功したと思いこんでいたからこそ回収できた。でなければ奴は即座に証拠を隠滅したに違いない。何喰わぬ顔で全てを遣り過ごし、こちらに尻尾を掴ませることはなかったはずだ。三年前に比べ豺牙の屋敷周辺の警戒態勢が格段に弛んでいたのは『りん殺害』に関して全く疑われていないという自信が奴にあったからだろう。フッ、事実、そなたは豺牙を塵(ちり)ほども疑わなかったのだからな。お陰で権佐の手の者が侵入しやすかったと申しておったぞ」
 

狗姫の痛烈な皮肉に殺生丸がグッと詰まった。
母親を睨んでいた殺生丸の目から赤味が消えると同時に妖線も元に戻った。
殺生丸の舌鋒(ぜっぽう)から鋭さが薄れ歯切れが悪くなった。
 

「・・・それでも、秘かに知らせるくらいは出来たはずだ」
 

狗姫が殺生丸の甘さを嘲るように言い返す。
 

「みすみす、りんの命を危険に曝(さら)すと判っていながらか?馬鹿を申すな。そなたも覚えておろう、殺生丸。六年前、妾(わらわ)は言ったはずだぞ。『二度はないと思え』とな。りんは天生牙で一度、冥道石で二度目の蘇生を果たした身。もう後がないのだ。三年前は運良く妾(わらわ)が“遠見の鏡”で見ていたからこそ間に合った。しかし、もし、あと僅かでも権佐が駆け付けるのが遅れていたら危なかったのだぞ。毒蛾の蛾々は、りんを鞭打った際、遅効性の毒を使った。その毒は時間の経過とともにジワジワと効いてきて最後は命を落とさせるという厄介なものだった。川から救出したものの、即、如庵に診せなんだら確実にりんは死んでおっただろうな」
 

「・・・・・・」
 

「それだけではないぞ。毒蛾の蛾々が使った毒のせいで熱を出したりんは、三日三晩、寝込んだのだ。ようやく熱が下がった時、りんは、それまでの記憶の全てを失っていた」
 

狗姫の話に目を瞠(みは)る殺生丸。
鉄壁の無表情に僅かながら動揺が仄(ほの)見える。
 

「・・・記憶を。では、私のことも」
 

「そうだ、何も覚えていなかった。りんが、唯一、覚えていたのは自分の名前だけだった」
 

「だが・・・先程、りんは私の名を呼んだ」
 

「確かにな。あれには妾も驚いた。この三年、りんは一度も、そなたや人界での事を思い出さなかったのだから。恐らく爆砕牙を振るうそなたを見て思い出したのだろう。如庵の診立てでは急激な記憶の回帰にりんの精神が耐え切れず失神したのだろうと結論づけておったわ。衝撃が大き過ぎたのだろう。未だ昏々(こんこん)と眠り続けておる。あの様子では当分、目覚めることはあるまい。それで、殺生丸、此度(こたび)の件の後始末、キッチリと片を付けてきたのであろうな」
 

狗姫の問い掛けに改めて豺牙の所業を思い出したのか殺生丸の目にギラリと物騒な光が戻る。
それは、殺生丸が、りんの前では絶対に見せない冷酷非情な権力者としての顔だった。
 

「豺牙の家中の者は残らず拘束。末端の小物どもは簡単に取り調べた後、放逐(ほうちく)させる。りんの殺害に加担した者は厳しく詮議し罪状を明らかにしてから処刑。奴の領地と財産は全て没収。残る沙汰は尾洲と万丈に任せてきた」
 

「フム、まあ、妥当な措置だな」


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑩』に続く

 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑧』


※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。


「ギャア~~~~~~~~ッ、ヒッ、ヒッ、ヒィ~~~~~~~~~~!」
 

凄まじい絶叫が周囲に響き渡る。
それは、牛車の中でウトウトと微睡(まどろ)んでいたりんの意識を覚醒させるのに充分な大音声(だいおんじょう)だった。
ガバッ、目を見開いたりんは掛け布を剥(は)いで跳(は)ね起きた。
 

「なっ、何の音!ハア~~びっくりしちゃった」
 

キョロキョロと周囲を見回す。
牛車の中は誰もいない。
では、外で何か起きたのだろうか。
それに屋形(=牛車の居住部分)の中が明るいのは何故だろう。
今は、もう、とっくに宵の口を過ぎているはずなのに。
りんは徐(おもむろ)に気が付いた。
自分が纏う打ち掛けが光っているのだ。
 

「・・・凄い。これって蛍みたいに光るんだ」
 

物見(ものみ)と呼ばれる牛車の窓を、りんはソッと小さく開け外の様子を窺ってみた。
寝ていた間に陽が落ちたのだろう。
辺りは真っ暗で篝火(かがりび)が方々で焚かれているのが見える。
ユラユラと闇の中に燃える篝火は非日常的で幽玄な趣きを醸し出している。
だが、そうした雅な雰囲気にそぐわぬ不穏な騒(ざわ)めきが、あちらこちらから漏れ聞こえ次第に大きくなりつつあった。
やはり、何かあったのだろう。
もう少し見ていたかったが、養母である狗姫(いぬき)の言い付け「妾(わらわ)が呼ぶまで絶対に外に出てはならぬぞ」を思い出し窓を閉めようとした。
その時、窓の隙間(すきま)から蝶が二匹、ヒラヒラと舞い込んできた。
 

「あれ、この蝶・・・前にも見た・・・よう・・な」
 

りんは三年前から狗姫の養女として天空に浮かぶ城に住んでいる。
それ以前の記憶が、りんにはない。
ポッカリと切り取ったかのように何も思い出せないのだ。
覚えているのは、唯ひとつ、【りん】という自分の名前だけだった。
だが、今、自分の目の前で飛んでいる綺麗な蝶に、りんは見覚えがあった。
特に色鮮やかな四枚の翅(はね)に付いている目のような模様。
ヒラヒラと翅が羽ばたくごとに四つの目もユラユラと揺れ動き、ジッと見つめられているかのような錯覚を起こさせる。
それは、スッポリと白い霧に包まれたように思い出せない三年前の記憶の中に存在している蝶だった。
そして、奇(く)しくも三年前と同じように、りんは毒蛾の蛾々の式鬼“孔雀蝶”に魅入られフラフラと外に彷徨(さまよ)い出てしまった。


由羅が絶叫を上げ気絶したのを見て、さしもの古狸、豺牙(さいが)からガックリと力が抜けた。
その悄然とした姿から、もう抵抗する気力もあるまいと判断した狗姫は権佐に命じた。
 

「離してやれ、権佐」
 

「はっ」
 

羽交い絞めを解かれた豺牙は、その場に頽(くずお)れるように座り込んだ。
呆然(ぼうぜん)と蹲(うずくま)る豺牙。
気絶した娘の側に近付く気力さえないらしい。
由羅は胸元を掻(か)き毟(むし)りながら絶叫を上げて倒れた。
その際、懐から扇が地面に転がり落ちた。
先程の幻惑の舞に使用した扇だ。
半ば開いた形で扇は地面に投げ出された。
その中から蝶が二匹、ヒラヒラと飛び立ったことに気付いた者は誰もいなかった。
漆黒の闇の中、蝶は、小さな隙間から洩れる光に誘われるように飛んでいく。
そして、フッと滑るように牛車の中に入り込んだ。
光源は、りんの纏う打ち掛けだった。
打ち掛けは闇の中で光る蛍のように輝いている。
事実、その打ち掛けは『蛍織り』と呼ばれる反物から仕立てられた物だった。
『蛍織り』、それは、西国、いや、妖界きっての機織名人、“白妙のお婆”が従来の『虹織り』に改良に次ぐ改良を加え開発に成功した織物である。
人間であるりんは妖怪のように夜目が利かない。
そんなりんの為に狗姫が“白妙のお婆”に要請(というよりも殆ど強要)して開発させたのが『蛍織り』である。
仕上がったのが、つい昨日の事、りんも、今日、初めて袖を通したばかりの品だった。
蝶に魅入られフラフラと足取りも定まらず宴の方へ歩いていくりん。
牛車は宴の会場から少し離れた場所にある。
月のない夜である。
墨を溶かしたような深淵の闇の中、りんの『蛍織り』の打ち掛けがポウッと光を発する。
照りつける陽光ではなく穏やかで優しい月光のような輝きが、りんを照らしだす。
まるで、りん自身が蛍になったかのようである。
それは、当然、宴の場にいる妖怪達の目を軒並(のきなみ)惹(ひ)きつけた。
殺生丸と狗姫、その側近連中や他の客達、更に項垂(うなだ)れた豺牙の目までも。
りんを見た瞬間、豺牙は理解した。
三年前、己が指示して襲わせた人間の少女だということを。
潰(つい)えた野望が紅蓮の炎となって一挙に燃え上がる。
豺牙の血走った眼に宿る破れかぶれの狂気。
牙を剥きだし爪を光らせ豺牙は唸り声をあげて、りんに襲い掛かった。
 

「ウガァ~~~~~最早、これまでっ! こうなった以上、お前も道連れにしてやるっ!」
 

事態に気付いた狗姫が叫ぶ。
 

「しまった! りん、逃げろっ!」
 

「りんっ!」
 

殺生丸が瞬時に爆砕牙を抜き放ち走りながら、りんを呼ぶ。
一気に緊迫する場、刹那の攻防。
全てが瞬(まばた)き一つの間に起こり、そして終わった。
豺牙の手が、りんに届く寸前、爆砕牙が炸裂した。
ザシュッ!ガッガガガガガガガガガガ・・・・
袈裟掛けで斬り倒された豺牙の身体が出血する間もなく細胞ごと破壊されていく。
文字通りの爆砕、りんの目の前で砕け散っていく豺牙。
血の一滴、肉片ひとつ残さない完璧な消滅。
究極の破壊力を有する刀、爆砕牙。
その刀を持っているのは・・・りんの・・大好き・・な・・・
 

「殺・・生・・・丸・・さま・・・」
 

記憶が押し寄せる波のように戻ってくる。
膨大な情報量に、りんの精神が悲鳴を上げる。
か細い声で殺生丸の名を呼びながら、りんが支えを失った人形のように倒れていく。
そんな愛娘を、すかさず狗姫が受け止め軽々と抱きかかえた。
松尾と権佐、他の女房衆が狗姫の脇を固めている。
殺生丸の側にも、狗姫と同様に、尾洲と万丈、木賊(とくさ)と藍生(あいおい)、相模が主を守るように立っていた。


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑨』に続く
 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑦』



※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。


(塵ひとつ残さず、この世から抹殺してくれる!)
 

激しい復讐の思いに駆られて、殺生丸は毒蛾の蛾々に向かって爆砕牙を抜き放とうとした。
だが、そんな殺生丸を止めたのは意外にも母の狗姫(いぬき)だった。
 

「待て、殺生丸」
 

「何故、止める、母上」
 

「刀を納めろ。そ奴には、まだ吐かせねばならん事があるのだ」
 

狗姫は豺牙(さいが)に視線を向け言葉を発した。
酒に焼けた豺牙の赤ら顔は先程から紙のような蒼白に変化していた。
よく見れば額に細かな脂汗をジットリと滲(にじ)ませている。
 

「豺牙よ、こ奴に見覚えはないか」
 

「とっ、とんでもございません、御方さま。何故、わしが、このような者を知っていると」
 

しかし、そこは、やはり古狸、豺牙は狗姫の尋問に対し自分への嫌疑を頑強に否認する。
状況から見て未(いま)だ決定的な証拠がないことに思い至ったのだろう。
言い逃れようようと必死に語勢を強くする。
狗姫は、再度、問い掛ける。
 

「誓って、この者との関係はないと?」
 

「勿論でございますっ!」
 

豺牙は飽くまでも白(しら)を切り通そうとする。
とことん己の否を認める気持ちはないらしい。
 

(こ奴に慈悲は必要ないな)
 

狗姫は厚顔無恥の輩に対する沙汰を内心で決定した。
そのまま厳しい面持ちで権佐に向き直り命じた。
 

「権佐、そ奴の猿轡(さるぐつわ)を解いてやれ」
 

「はっ」
 

今度は猿轡を外された毒蛾の蛾々に狗姫が問う。


「毒蛾の蛾々とやら、聞いておっただろう。豺牙は、そなたとは何の関係もないと言い切った。真(まこと)か?」
 

もう逃げも隠れもできないと腹を括(くく)ったのだろう。
毒蛾の蛾々は、完全に開き直った態度で狗姫の尋問に応える。
 

「何の関係もない!? ハッ、大有りだよ、見てただろう、狗姫の御方さま。三年前、俺が、人間の小娘を襲ったのは、全部、あの爺の差し金さ。おまけに、絶対、小娘には傷をつけないようにって、くどいくらい念を押されてね。何でかって、そりゃ、まず有り得ないと思うけど、小娘の死体が見つかった場合にさ、如何にも襲われましたって傷が残ってたら不味いだろ。万が一にも自分が疑われないようにって算段だよ。本当にあざといよね。だからさ、あの丸太は、こっちの予定外だ、全くの偶然。それに、もう気付いてるだろうけど、さっきの扇から出てきた蝶、あれ、俺の式鬼なんだよね。殺生丸さまを籠絡するのに手を貸せって云われてさ。本当は嫌だったけど、そうしないと弟達を殺すって脅(おど)されてね」
 

すかさず狗姫が問い掛ける。
 

「兄弟を質に取られているのか?」
 

「そっ、だから逆らえなくてさ」
 

毒蛾の蛾々の反論に豺牙が噛み付いた。
蒼白だった顔色が一気に茹蛸(ゆでだこ)のように赤くなっている。
興奮して、そのまま、蛾々に掴(つか)みかかりそうな勢いだ。
 

「だっ、黙れ!黙れ!黙らんかっ!この女男がっ!」
 

「うるさいぞ、豺牙。権佐、そ奴を黙らせろ」
 

「はっ、仰せのままに」
 

ガシッ、権佐が豺牙を羽交(はが)い絞めにして押さえつけた。
それでも大兵(だいひょう)の豺牙はバタバタと手足を動かして必死に逃れようとする。
しかし、権佐の拘束はビクともしない。
妖界でも三本の指に数えられる凄腕の妖忍の権佐である。
難なく大声で喚き散らす男を押さえて大人しくさせた。
 

「豺牙殿、お静かに」
 

そこへ新たなお庭番がやってきて狗姫の前で膝を折り小さな包みを手渡した。
ハラリ・・・布の中から出てきたのは紅白の飾り紐。
それを手に狗姫が毒蛾の蛾々に訊ねる。
 

「毒蛾の蛾々よ、これに見覚えがあろう?」
 

蛾々はチラリと紅白の髪紐に目をやると答えた。
 

「ああ、そうだね、あの時、小娘から奪った髪紐だ。でもさ、狗姫の御方さま、どうして此処にあるのかな。俺は、三年前、そこの爺に渡したのに」
 

「フッ、豺牙の屋敷から回収した。西国王の寵姫殺害の“動かぬ証拠”としてな」
 

その狗姫の言葉に豺牙が喰い付いた。
 

「なっ、何とっ、我が屋敷から持ち出したですとっ!御方さま、それは聞き捨てなりませんぞっ!その髪紐は、あの人間の小娘の物などではございません。我が娘、由羅の物にございます」
 

「そうなのか?」
 

狗姫が豺牙の娘、由羅に向かって問う。
由羅は頭の中で素早く計算した。
ここは父に掛けられた嫌疑を何としても回避しておかねばならない。
でなければ明日からは罪人の娘として扱われ下手をすれば牢に繋がれる羽目にもなりかねない。
意を決した由羅は顔を俯(うつむ)け如何にも殊勝な娘を装って答えた。
 

「はい、それは、間違いなく私の髪紐にございます」
 

殺生丸と狗姫は西国の最高権力者である。
その両名を前にして由羅は臆面もなく嘘をついた。
親が親なら子も子である。
面の皮の厚さは遺伝らしい。
一片の良心の呵責(かしゃく)すら由羅は感じていないようだった。
その態度を見て狗姫は由羅に対する処遇も決めた。
 

(親子ともども慈悲は必要あるまい)
 

「では、由羅とやら、これで髪を結うてみよ」
 

狗姫が髪紐をお庭番に手渡すと、その者は小走りで由羅の下へ。
 

「お安い御用ですわ」
 

由羅はニッコリと笑ってお庭番から髪紐を受け取った。
実に強(したた)かな性根だ、大した役者である。
そのまま由羅は自分の赤い髪を一房取り髪紐で結わえた。
次の瞬間、とてつもない絶叫が由羅の口から飛び出した。
 

「ギャア~~~~~~ッ!ヒッ、ヒッ、ヒィ~~~~~~~!」
 

由羅はバッタリと白目を剥(む)いて倒れた。
その顔は凄まじい恐怖に醜(みにく)く歪んでいる。
気絶した女の顔を見下ろしながら狗姫は殺生丸に話しかけた。
 

「ふむ、やはり、こうなったか。愚かな女だ。殺生丸、そなたは、当然、予想しておっただろうな」
 

「当たり前だ、あの呪(しゅ)は私が掛けたもの。りんに贈った品には全て同じ呪(しゅ)を掛けてある」


【補足】:りんちゃんの持ち物に掛かっている呪(しゅ)については拙作の『二人の巫女』を御参照下さいませ。


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑧』に続く


 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑥』


※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。


次々と腑に落ちない点が疑問として殺生丸の脳裏に浮かんでくる。
三年前、未曾有の大雨が人界を襲った。
滝のような雨が、二日二晩、休みなく降り続いたという。
大雨が降りだした日に、りんは行方知れずとなった。
丁度、私が妖界へと戻った翌日だった。
私の不在を待っていたかのように雨は降りだした。
そして、りんに逢う為、私が人界へ渡る前日に雨はピタリと降りやんだ。
今にして思い返せば何とも胡散(うさん)臭い。
どう考えても都合が良すぎる。
ということは・・・あの大雨さえも豺牙(さいが)の仕組んだことなのだろう。
殺生丸は己の迂闊(うかつ)さに目が眩(くら)む思いだった。
掌(てのひら)に喰い込む爪が更に深くなる。
今、殺生丸の目の前で明らかになりつつある三年前の『りん失踪』の真実。
大雨で増水する危険な川の側へ、りんを誘い込んだ蝶は毒蛾の蛾々という妖怪が操る式鬼(しき)だった。
女顔の妖怪は鞭(むち)を得物に、りんに襲いかかる。
右へ左へ蛇のようにくねる鞭、土砂降りの雨が降る中、りんが逃げ惑う。
ぬかるみに足を取られ、りんが転んだ。
泥で汚れた、りんの顔、着物。
恐怖に怯(おび)えるりんを見て男は嘲笑(あざわら)う。
奴は鼠を甚振(いたぶ)る猫のように、りんを弄(もてあそ)んでいた。
出来るものならば、今直ぐにでも、奴の笑っている顔を引き裂いてやりたい!
殺生丸は激情が血のように赤い靄(もや)となって己を呑み込もうとしているのを感じた。
三つ目の妖牛、凱風(がいふう)が夜空に投影する映像は尚も続く。
水の音が聞こえてきそうな程、驚異的に増えていく川の水量。
溢れる水はドンドン川幅を拡げ勢力を増しつつあった。
川に流れ着く前に土を削り取ってきたのだろう。
水の色は透明度を失い濁(にご)った黄土色へと変化していた。
頃は良しと見たのか、男が、一際、大きく鞭を振りかぶった。
それまで、毒蛾の蛾々は髪の毛ひと筋の差で、りんに触れないように鞭の動きを制御してきた。
奴の力量からすれば造作もないことだろう。
次の瞬間、初めて、蛾々の鞭が、りんに触れた。
何かを狙ったような動きだった。
りんの顔の右側を僅(わず)かにかすめて鞭は離れた。
それでも、かなりの衝撃だったのだろう。
水飛沫(みずしぶき)を上げ川に落ちるりん。
降りしきる雨の中、孤を描いて毒蛾の蛾々の手に何か落ちてきた。
それは、殺生丸が、りんに贈った紅白の飾り紐(ひも)だった。
他にも何本か髪紐を贈ったが、紅白の色合いが、初めて殺生丸から貰った市松模様の着物を思い出させると云って、りんの一番のお気に入りだった。
川に落ちたりんは必死にもがいていた。
りんは泳げない。
以前、神楽が、御霊丸(ごりょうまる)なる者に攻撃を受けて川に落ちた時もそうだった。
自分が金槌(かなづち)にも拘らず神楽を助けようとして川に入ったりん。
結果的に、りんは溺れかけ殺生丸が助ける羽目となった。
神楽と邪見は阿吽に命じて助けさせた。
あの後、殺生丸は、りんを溺れさせた邪見に『監督不行き届き』として拳をくれてやったのだ。
もう六年も前のことになる。
だが、追憶に耽(ふけ)っている暇はない。
更なる危険が、りんに迫っていた。
絶え間なく降り注ぐ雨のせいで爆発的に増えた川の水は荒れ狂い水流を速める。
激流に変化した川の水に乗って太い丸太が何本も、矢のように、りんの方に流れ下ってくるのが見えた。
 

「「りんっ!」」
 

思わず立ち上がって殺生丸は叫んでいた。
後で気付いたが邪見も同様だった。
一本の太い丸太が、りんの顔面を直撃した。
ゆっくりと水面にりんが沈んでいく。
水面に散った赤い色・・・りんの血だ。
毒蛾妖怪は、りんが見えなくなるのを確認すると、ニヤリと笑って翅(はね)を羽ばたかせ姿を消した。
そこで、フッと映像は消えた。
ブモォ~~~~~~~~~~~~~~~~
『これで終了』とばかりに三つ目の妖牛が嘶(いなな)く。
空は元通りの闇夜に戻っていた。
殺生丸の目は激情に昂(たか)ぶり虹彩を残して真っ赤に変化していた。
頬に流れる妖線も太く大きくなり始めている。
シュウ~~~シュウ~~~~
余りの憤怒に喰いしばった歯の間から荒い呼吸が漏(も)れる。
極限にまで膨れ上がった怒りのせいで人型が崩れかけている。
今にも犬妖族の本性のままに変化(へんげ)してしまいそうだった。
殺生丸は、それほどまでに激怒していた。
その時、凛とした声が横から響いた。
母の狗姫だ。
 

「権佐、奴を、ここへ」
 

姿を隠して背後に控えていたのだろう。
西国お庭番の頭領、権佐が声だけで応える。
 

「はっ!」
 

一体、誰を連れてこようと言うのだろう。
殺生丸は母の言葉に訝(いぶか)しんだ。
権佐が配下のお庭番数名と共に姿を現した。
何者かを捕縛しているらしい。
妖力封じの縄を使用した上に猿轡(さるぐつわ)まで噛ませている。
男の顔を見た瞬間、殺生丸の自制心は吹き飛びそうになった。
それは、殺生丸が、何度、八つ裂きにしても飽き足りない男。
つい今しがた、いや、三年前、りんを川に落としこんだ毒蛾の蛾々だった。


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑦』に続く


 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑤』



※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。


腸(はらわた)が煮えくり返る。
殺生丸は渦のように体内で逆巻く怒りの奔流を必死に抑えていた。
もう間違いない、豺牙(さいが)、りん失踪の首謀者。
今直ぐ、奴の首に手を掛けて捻(ね)じ切ってしまいたい!
だが・・・証拠がない。
如何に、奴が怪しくとも証拠もなく断罪はできぬ。
ギリギリ・・・握り締めた拳に爪が喰い込み皮膚を破って血が滲(にじ)みだす。
余りにも激しい怒りが痛覚を麻痺させ痛みを感じさせない。
殺生丸は険しい目で豺牙を睨(にら)みつけていた。
そんな殺生丸の激怒と焦燥を逸早(いちはや)く感知したのは、やはり母の狗姫(いぬき)だった。
拳の中に握り込んでいるが故に殆ど漏れていないはずの息子の血の匂いを犬妖族ならではの鋭敏な嗅覚で嗅(か)ぎ付けたのだ。
 

(これは・・・血の匂い。そうか、殺生丸、事の真相を察知したか。されど、今しばし待て。堪(こら)えるのだ)
 

由羅の舞が終わるのを待って狗姫は立ち上がり言葉をかけた。
 

「見事であったぞ、由羅とやら。舞の返礼に、こちらも余興を用意した。松尾、あれを」
 

「はい、さっ、こちらへ」
 

松尾の指示の下(もと)、数名の女房が布で覆いをかけた大きな荷物を牛車から運び出してきた。
何故か、大きな黒い妖牛まで一緒に牽(ひ)かれてくる。
荷物は形状から見て余り厚みがない。
狗姫は、それを自分の前方に置かせ、妖牛は少し後方に待機させた。
徐(おもむろ)に狗姫が掛け布を取り払った。
パサッ・・・現われたのは狗姫の身長ほどもある楕円形の鏡。
重厚な台座に固定されている。
狗姫が大きな鏡を前に説明を始めた。
 

「これはな、“遠見の鏡”といって、どんな遠方でも見ることの出来る不思議の鏡だ。元々は西国城の宝物庫に秘蔵されていたのだが、それでは折角の宝の持ち腐れ。三百年前に妾(わらわ)が譲り受け、以来、愛用しておる。これは中々に面白い鏡でな。命じさえすれば、一度、映したものを再び映し出すことが可能なのだ。よって、今から皆に妾(わらわ)が三年前に見たものを御覧にいれよう。幸い、今宵は月もない。さて、凱風(がいふう)よ、頼むぞ」
 

ブモォ~~~~~~~~
凱風(がいふう)と呼ばれた妖牛は、主の言葉に、『了解』とばかりに、一声、大きく嘶(いなな)いて三つ目をカッと光らせた。
通常の両目は前方の“遠見の鏡”を照射し、天眼とも呼ばれる第三の目の光は夜空に向かう。
両目に写し取った映像を天眼が拡大して空に投影しているのだ。
紅葉の宴が催されている盆地は、すり鉢のような形状になっている。
従って頭上にはポッカリと円形の夜空が覗(のぞ)いている。
漆黒の闇夜を背景に大きく映し出されたのは、のどかな春の風景だった。
満開の桜の大木の下、根元に腰掛ける殺生丸、従者の邪見、そして、桜の花を手に受けようとする人間の少女の姿。
 

(りんっ!)
 

驚愕に殺生丸の目が大きく見開かれる。
主と同様、邪見も衝撃を受けていた。
唯でさえ大きな出目を更に引ん剥(む)き、パクパクと口まで大きく開けて阿呆面を曝(さら)しつつ夜空を見上げている。
ハラハラと舞い散る桜の花びら、無邪気に笑う少女、何やら小言を呈している従者、両者の遣り取りを見るともなく見ている殺生丸。
それは紛れもなく三年前のあの日の再現だった。
思い出せば泣きたくなるほど穏やかで幸せな思い出の一幕。
場面は直ぐさま切り換わる。
ヒラヒラと舞い飛ぶ二匹の蝶を追いかける少女。
赤、青、黄、黒、白、鮮やかな蝶の翅(はね)には目の模様がある。
先程、由羅の扇から出現した蝶と全く同じ模様だ。
突然、二匹の蝶は掻き消すように消えた。
少女が周囲をキョロキョロと見回す。
すると、それまでの晴天が嘘のように曇りだし天から大粒の雫(しずく)が降り始めた。
滝のように降り注ぐ雨は少女をアッという間にずぶ濡れにしてしまう。
家に戻ろうとする少女の前に立ちはだかったのは妖しい美貌の妖怪。
一見、女とも見紛う顔、だが、その顔から下を良く見れば男ならではの喉仏(のどぼとけ)がある。
背に生えた大きな羽、色白の顔を奇妙な形で隈(くま)取る赤、青、黄、緑の化粧。
全てが異様なまでに毒々しく不吉だった。
 

(あ奴はっ!?)
 

殺生丸は男に見覚えがあった。
今から百年ほど昔、殺生丸が人界を放浪していた頃、『迷蝶の森』で絡んできた妖怪だった。
蝶に誘い込まれ森の中に踏み込めば道に迷い二度と戻れなくなる、そうした噂から、何時しか『迷蝶の森』と呼ばれるようになった場所がある。
単なる噂だろうと殺生丸が試(ため)しに森の中に入ってみた処、誘蛾族の奴に出交(でく)わしたのだった。
誘蛾族は蝶の式鬼(しき)を使って相手を難所(なんしょ)に誘い込み毒で仕留める妖怪である。
通常、誘蛾族は雄は雌を雌は雄を惑わすものだが、奴は雄でも雌でもお構いなしの両刀使いだった。
名は何と云っただろうか、そうだ、極めて毒性の強いことから“毒蛾の蛾々”と呼ばれていた。
美形を特に好み得意の鞭(むち)で散々に弄(もてあそ)んでから嬲(なぶ)り殺すという悪癖を持つ男だった。
迷蝶の森に足を踏み入れた私を見た途端、いつものように獲物で遊ぼうとしたのだろう。
奴が鞭で攻撃を仕掛けてきた。
そういえば、あの時も、周りに先程の舞と同じ蝶が飛んでいたな。
興味がないので碌(ろく)に見もしなかったが。
蛾々が鞭(むち)を得物にしているように私も鞭を使う。
同じ妖鞭で対抗する術(すべ)もあったが、そうすると時間が掛かる。
あんな奴に付き合ってやる義理はないので速攻で間合いを詰め毒華爪で片をつけてやった。
通常ならば、あれで死ぬのだが、奴も毒を体内に保持する妖怪。
私の毒に負けはしたものの命を落とすまでには至らなかったのだろう。
如何なる経緯(いきさつ)かは知らぬが、豺牙(さいが)は毒蛾の蛾々を雇った。
そして・・・りんを襲わせたのだ。


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑥』に続く

 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)④』



※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。


陽が陰る。
いつしか夕闇が迫っていた。
辺りが暗くなりだした。
ボッ、篝火(かがりび)がいくつも点(とも)され辺(あた)りを照らし出す。
赤々と篝火が揺れる中、鼓を打つ音が響く。
カッポン、カッポン、カッポンポン・・・ポン!
それを合図に笛の音、筝(そう)の音が鳴り響く。
幽玄の調べに合わせ由羅が扇を手に舞い始める。
宴が酣(たけなわ)になろうとする最中(さなか)、豺牙(さいが)が狗姫と殺生丸に余興を申し出た。
娘の舞を一指(ひとさ)し御目にかけたいと。
豺牙は焦りに焦っていた。
慎重に練り上げ準備した目論見は出端(でばな)から挫(くじ)かれ潰されてしまった。
始めから何もかもが自分の思惑から外れてしまった。
あの土壇場に狗姫の御方が現われさえしなければ・・・主賓の座には由羅と殺生丸が並んで座っていたはずだった。
そして、強力な媚薬入りの酒と精力を増強させる珍味佳肴が作用して・・・殺生丸を籠絡しようとする由羅を大いに助けていたはずなのだ。
それなのに、今、殺生丸は主賓の座に母の狗姫と同席している。
酒と肴も狗姫によって用意され、豺牙が用意した代物は全くの用無し状態に陥っている。
このままでは殺生丸を由羅に籠絡させ時間をかけて西国の実権を握ろうとする遠大な計画が水泡に帰してしまう。
(クッ、何とかせねば・・・。どうすれば、そうだ、あの手があったではないか!)
豺牙は思い付いた策を実行すべく、早速、次のように殺生丸と狗姫に願いでた。
 

「殺生丸さま、狗姫の御方さま、我が娘、由羅が、余興に舞を披露したいと申しております。お許しいただけますでしょうか」
 

この豺牙の申し出に対し、狗姫は、瞬時、思案した。
豺牙め、まだ殺生丸の籠絡を諦めてはおらぬらしい。
まだ足掻くか、流石に古狸(ふるだぬき)、実にしぶといことよ。
内心、呆れつつも、奴らが、どのような手管を使ってくるのだろうかと思うにつけ狗姫の悪戯心(いたずらごころ)に火がついた。
面白い、舞の披露を許可してやろうではないか。
勿論、殺生丸も同意の上でな。
斯(か)くして由羅は殺生丸と狗姫の前に進み出て舞を始める仕儀となった。
さてさて、豺牙親子は、如何なる手段を用いてくるのか。
狗姫は目を細めて由羅が舞を始めるのを待った。
宴に参加している殆どの者が注視する中、ユラリ・・・由羅が手にした扇を開いた。
すると、扇から、蝶が二匹、忽然と現われヒラヒラと舞うように飛び始めた。
朱、青、黄、黒、白、鮮やかな四枚の翅(はね)に孔雀の目のような模様。
珍しくも美しい蝶、あれは孔雀蝶ではないか。
蝶の羽から撒き散らされる燐粉が篝火に照らされキラキラと妖しく輝く。
あの燐粉・・・幻惑の術か!? 
咄嗟(とっさ)に狗姫は袂(たもと)の中で印を結び気合いで周囲に結界を張り巡らした。
ピン! 大気が張り詰める。
殺生丸も、こちらの意図に気付いたのだろう。
極々、わずかではあるが眉間に皺を寄せ顔を顰(しか)めている。
一見、辺(あた)りには何の変化も見当たらない。
だが、実際には狗姫を中心に強力な結界が、四方、十間(じゅっけん=約18.2m)に亘(わた)り張られていた。
金色の燐粉が見えない壁に阻(はば)まれサラサラと垂直に零れ落ちていく。
由羅の幻惑の術に気付いた者は、妾(わらわ)の他には恐らく、殺生丸、尾洲、万丈、松尾、それに西国女官長の相模、側近の木賊(とくさ)と藍生ぐらいであろうな。
狗姫は、周囲の様子から判断して、そう見当をつけた。
他の者達は、皆、由羅の舞に魅せられ気付きもしない。
豺牙の娘、由羅なる女の扇から蝶が現われるのを見た瞬間、殺生丸の脳裏に三年前の女退治屋の言葉が甦(よみがえ)った。
確か、琥珀の姉で名を珊瑚とかいった。
あの時、女退治屋は、声を詰まらせながら最後に見かけたりんの様子を必死に言い募(つの)っていた。


『蝶がっ!見たこともない・・綺麗な蝶が・・飛んでたんだ。りんは・・・それを追って川の方へ。その後・・直ぐに雨が降りだして・・・。これ迄に経験したことがない・・・もの凄い大雨だったんだ。アッという間に水が・・そこら中(じゅう)から溢れ出して・・りんを・・捜しに行くことさえ・・出来なかったんだ!』


りんは行方知れずになる前に珍しい蝶を追って川の側へ行っていた。
その話から導きだされる答え・・・りんは、わざと川の近くに誘い込まれたのか!?
今迄、りんの失踪にばかり気を取られ、その可能性に気付きもしなかったが。
ということは・・・この幻惑の蝶・・・豺牙の仕業か!?
殺生丸の脳裏に『りん失踪』の真相が稲妻のように閃(ひらめ)いた。
それと同時に隣(となり)に座る母親が無言で結界を結んだ。
狗姫を中心に、突然、四方に張り巡らされた結界。
一気に周囲の気が張り詰める。
(この結界!母上か!?)
視線を横に流せば目に映るのは自分と酷似した白皙の顔。
『おや、気付いたか』と云わんばかりの母のしたり顔が飛び込んできた。
この事態を楽しんでいるのだろう。
瞳は躍るように輝き口角が上がっている。
忌々(いまいま)しいが素早い対応は流石というべきか。
空中に撒き散らされた蝶の燐粉が煌(きら)めきながら下に落ちていく。
結界に阻まれ殺生丸と狗姫の位置にまで到達できないのだ。
成る程、この燐粉で私を幻惑する積りだったのか。
愚かな・・・私は毒に耐性がある。無論、母上もだ。
豺牙め、こんな子供騙(だま)しの術が効くと思ったのか?
殺生丸は地面に散らばる夥(おびただ)しい燐粉を厳しい目で見据えた。
もし、これが日中だったなら気にも留めず見過ごしたかもしれない。
だが、今は宵闇の中、燐粉は篝火に照らされキラキラと輝き、豺牙親子が何を企(たくら)んでいたのかを明らかにしていた。

※『錦繍事変(きんしゅうじへん)⑤』に続く

 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)③』



※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。


艶(あで)やかな一行は殺生丸や豺牙(さいが)から少し離れた位置に静かに降り立った。
地面に着地すると同時に牛車に繋がれていた三つ目の妖牛が大きく嘶(いなな)いた。
ブモォ~~~~~~
通常よりも一回り大きな牛車に相応しく、それを牽(ひ)く牛も並みの大きさではない。
手入れが良いのだろう、全身、真っ黒な毛並みがツヤツヤと黒光りしている。
大きく頑丈そうな胴体を支える逞(たくま)しい四肢、頭から突き出た大きな角、見事な体躯である。
もし闘牛に出したとしても楽々と優勝しそうな威容を誇る牛だが、妙に愛嬌がある。
それは妖牛の顔のせいだった。
何とも惚(とぼ)けた感じがする三つ目、その顔を見たが最後、誰もが、緊張感など何処かに忘れ去ってしまうからだろう。
そのせいか、威圧感を与えるほど大きな体格にも拘らず、牛飼いは勿論、お付きの女房衆からも可愛がられているらしい。
牛車から妖牛が離され轅(ながえ)が下ろされた。
牛車の箱、または屋形とも呼ばれる乗車部分の前に搨(しじ)が置かれる。
お付きの女房が二名がかりで御簾(みす)をスルスルとたくし上げた。
屋形(やかた)の中からスッと御出座(おでま)しになったのは西国で最も高貴な女性。
前西国王妃にして当代さまの御生母、王太后の狗姫(いぬき)の御方である。
絶世の美姫として世に名高い前王妃は、襟元は朱金、そして次第に金へと色が変化するボカシ染めの技法を駆使した絹地に大輪の菊と南天をあしらった優美な打ち掛けを身に纏(まと)っておられた。
菊は文字通り『秋』を象徴する花、南天は『難』を『転ずる』の意味から縁起物として喜ばれる草木。
秋という季節に合わせた高雅にして艶麗な趣きの衣裳である。
牛車から降りられた狗姫の御方は女房達を引き連れ殺生丸の方へやって来た。
当然、豺牙は西国に属する臣下として挨拶せねばならない。
(なっ、なぜ、狗姫の御方が、ここに!?)
豺牙が、うろたえるのも無理はない。
闘牙王が身罷(みまか)って以来、かれこれ二百年が経つが、これまで狗姫が公式の場に姿を現したことは殆どなかったのだ。
だからこそ、今回の宴も、勿論、欠席と見込んで何の用意もしていなかった。
狗姫の不意の登場に、内心、慌(あわ)てふためきながらも、そこは流石(さすが)に古狸、豺牙は狼狽する気持ちをグッと堪(こら)え殊勝な顔を作り挨拶した。
 

「こっ、これは狗姫の御方さま、ご来臨を賜わり誠に恐縮至極(きょうしゅくしごく)に存じます」
 

「豺牙か、久しいな、邪魔するぞ」
 

狗姫は、そう宣(のたま)うと、すぐさま筆頭女房の松尾に頷いた。
すると、それが合図だったのだろう。
松尾が後方に控えていた女房衆に声を掛けた。
すぐさま狗姫に付き従ってきた十数人の女房達がキビキビと動き始めた。
血のように赤い猩々緋の毛氈に瑠璃色の毛氈が次々と足され忽(たちま)ち宴席が拡がる。
上空から見れば赤の陣地に青の陣地が喰い込むように見えただろう。
そして、狗姫は何喰わぬ顔で微笑みながら豺牙の姦計を潰(つぶ)しにかかった。
 

「どれ、わざわざ豺牙が対(つい)で用意してくれた席だ。殺生丸、妾(わらわ)と並んで座るがよいぞ」
 

「・・・・・・・」
 

殺生丸に否やはない。
用意された主賓の座に母と息子は並んで着座した。
この場に狗姫が現われた時点で豺牙の計画は初(しょ)っ端(ぱな)から躓(つまず)いた。
今、ここで、西国王である殺生丸の横に座れるのは身分からいって王太后の狗姫を置いて他にいないのだ。
豺牙は周到に仕組んだ目論見の一端が頓挫したことを覚(さと)った。
とはいえ、まだ計画の全てが瓦解(がかい)した訳ではない。
要は殺生丸が由羅に籠絡されてしまえばよいのだ。
その下準備として殺生丸に饗(きょう)する薬酒には強力な媚薬が仕込まれているし、肴(さかな)は精力を増強させる物ばかりを用意してある。
素早く気持ちを立て直し豺牙は家臣に酒と肴を出すよう口を開きかけた。
その矢先、狗姫が豺牙の機先を制するように声を掛けた。
 

「突然、押しかけて済まんな、豺牙。せめてもの詫びに酒と肴を用意させた。遠慮なくやってくれ」
 

「あっ、いや・・・その」
 

狗姫に付き従ってきた女房衆が次々と贅(ぜい)を尽した山海の珍味を盛り付けた膳を運び込み主だった家臣の前に置いていく。
如何に豺牙が古狸とはいえ最高権力者を二人も前にしてゴリ押しは出来ない。
不満気(ふまんげ)に口を噤(つぐ)むしかなかった。
更に酒を満たした徳利と盃(さかずき)が大量に運ばれ宴席を埋め尽した。
酒食を全て狗姫に提供されてしまった以上、豺牙は一言も口を挿(はさ)めない。
この時点で豺牙が用意した酒と肴は完全に『用無し』とされてしまった。
 

「ほれ、殺生丸、盃(さかずき)を取れ。薬老毒仙から巻き上げた“切れずの瓢(ふくべ)”ぞ」
 

そう云って狗姫は松尾から受け取った瓢箪(ひょうたん)を振ってみせた。
チャポチャポ・・・中の酒が揺れる音がする。
瓢箪に巻き付けられた赤い飾り紐(ひも)がユラユラと揺れる。
 

「・・・薬老毒仙」
 

「んっ、そなたも知っておろう。あの助兵衛爺と妾(わらわ)との一件を」
 

「・・・・・・」
 

「ふふっ、この“切れずの瓢(ふくべ)”は妾の嫁入り道具の一つ。酌(く)めども酌(く)めども酒が尽きぬ不思議な瓢箪。どれ、殺生丸、そなたも妾も音に聞こえし酒豪。今日は思う存分、飲み明かそうではないか」
 

そんな狗姫の言葉に殺生丸が無言で盃を差し出す。
国主親子が酒を酌み交わすと同時に華やかな宴が始まった。

 

【轅(ながえ)】::牛車の前方、左右に長く前に出ている木のこと。

【搨(しじ)】::机のような形をした台で、車から牛を放した時に車を水平に保つため軛(くびき)の下に置くもの。


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)④』に続く
 

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『錦繍事変(きんしゅうじへん)②』


※上の画像は『妖ノ恋』さまの使用許可を頂いてます。



りんが生きていると殺生丸が知ってから、かれこれ一年が経とうとしている。
あの方士、方斎の占いでは、りんは、間もなく戻ってくると聞いた。
それ以来、殺生丸は暇を見つけては人界へ渡り、りんを捜し歩いた。
だが、僅(わず)かな手がかりさえ見つからず現在に至る。
本当に、あ奴の易占は当たるのだろうか?
日毎に殺生丸は苛立ちは募(つの)らせていた。
りん、りん、何処にいる!?
今日とて人界へりんを捜しに行きたいのに、くだらぬ催しに顔を出さねばならぬ。
紅葉の宴だと、ハッ、何でも豺牙(さいが)めが強硬に主張したらしい。
豺牙・・・今は亡き父上の母方の従兄弟、本来なら縁戚とも言えぬような遠縁。
にも拘らず、私が西国を留守にしていた間、あ奴は血筋を盾に要職に就き、散々、甘い汁を吸ってきたらしい。
典型的な虎の威を借る狐だ。
大して能力もない癖に権力欲だけは強い輩などに用はない。
少し奴の身辺を調べただけで唾棄するような不正行為がゴロゴロ出てきた。
悪行の証拠を突き付け一日も早く罷免(ひめん)してくれるわ。
罪状が目に余るようなら死罪もありうる。
そんな物騒な思いを抱きながら殺生丸は阿吽から降りた。
すると、こちらの到着を待ち構えていたのだろう。
豺牙がゾロゾロと一門を引き連れてやって来た。
一応、奴が一番近い親戚筋になるからな。
見るともなく目をやれば満面の笑顔が気色悪い。
テラテラと赤い顔は恐らく酒浸(さけびた)りのせいであろう。
『相変わらず、いけ好かない奴だ』と殺生丸は感じた。
心の中では、こちらを青二才と嘲りながら、表面上は甘言を弄(ろう)して従う素振りを見せる男。
殺生丸は豺牙の顔を半眼で眺めつつ、益々、内心の決意を固めた。
 

「ようこそ、おいで下された、殺生丸殿。ささっ、どうぞこちらへ」
 

やけに上機嫌な豺牙が挨拶もそこそこに主賓の座に殺生丸を着かせようと先に立って歩き始める。
用意された宴席を見れば猩々緋(しょうじょうひ)の毛氈に設(もう)けられた豪華な対(つい)の座布団と脇息(きょうそく)。
その設(しつら)えを見た殺生丸は勿論、従者の邪見、重臣の尾洲、万丈、側近の木賊(とくさ)、藍生、女官長の相模が一様(いちよう)に顔を顰(しか)めた。
瞬時に豺牙の狙いを読み取ったのだ。
本来ならば主賓は殺生丸のみ、座布団は一客で良いはず。
それなのに、何故、座布団が対(つい)なのか?
一方の座布団に殺生丸様が座るとして、もう片方には誰が?
見ている限り、豺牙が横に座る気は毛頭(もうとう)ないらしい。
尾洲や万丈は重臣ではあるが家臣の為、殺生丸の横に座る訳にはいかない。
側近の木賊(とくさ)や藍生、女官長の相模にしても同様である。
となると、この場において殺生丸の隣りに座ることが許される身分の者は唯一名、豺牙の娘、由羅のみである。
不味(まず)い! この状況は非常に不味(まず)い!
これが単なる茶を飲む程度のことならば問題はない。
しかし、この場は酒食を供する宴席。
然(しか)も、由羅の装いは純白の絹地に秋の草花を散らした美々しい打ち掛け。
見ようによっては、まるで花嫁のように見える衣裳。
いや、気のせいではない。
明らかに、そう見えるよう意識して装ったに違いない。
『謀(はか)られた!』
殺生丸を始め一行の誰もが豺牙の意図する処に気付いた。
豺牙に誘導されるがまま殺生丸が席に付けば相手の思う壺に嵌(は)まってしまう。
何しろ、この宴には西国の主だった者が集まっている。
このままでは紅葉の宴が婚礼のお披露目の宴と勘違いされてしまう怖れが多分にある。。
殺生丸は西国に帰還して以来、これまで一度も公式の催しに出席したことがない。
謂(い)わば、この紅葉の宴が初の『お目見え』となる。
事前に、そうと知ったせいだろう。
今回の宴に参加する家の数が鰻登(うなぎのぼ)りに跳(は)ね上がった。
そうと知った上での豺牙の強行だった。
豺牙は高を括(くく)っていた。
礼儀から云っても殺生丸が着座を拒否するはずがないと。
それに男なら美しい娘が同席するのを喜びこそすれ否(いな)みはすまいと勝手な思い込みをして。
周囲がやきもきする中、豺牙の娘、由羅はウットリと殺生丸に見惚(みと)れていた。
双頭の竜に乗って空から降り立った西国王は噂に違(たが)わず美しかった。
白銀の髪は陽を弾(はじ)いて煌(きらめ)き秀麗な容貌は寸分の狂いもなく刻まれた彫像のように端整で夢のように麗しい。
三年前に帰還して以来、殺生丸は、西国内では武家の棟梁(とうりょう)に相応しい直垂(ひたたれ)を着用するようになっていた。
以前の振袖と指貫(さしぬき)に妖鎧を装備したお馴染みの戦装束(いくさしょうぞく)は専(もっぱ)ら人界へ赴く時のみとなっている。
今、殺生丸がお召しになっているのは青味を帯びた銀の共布で仕立てられた直垂(ひたたれ)。
光沢のある絹地に織り出された見事な柄行(がらゆき)は優美に空を舞う鷺(さぎ)の姿。
腰に差すのは二本の大刀、朱塗りの鞘の天生牙と白木の鞘に雷紋を彫り込んだ爆砕牙。
優雅にして華麗、尚且つ凛々(りり)しい貴公子ぶりに男女に限らず誰もが目を奪われた。
由羅とて例外ではない。
初めて見た殺生丸に一目で心惹(ひ)かれた。
(何としても、あの若く美しい御方の妃になりたい)
由羅の心にムクムクと願望が湧き上がる。
殺生丸を己の容色で籠絡しようと宴に乗り込んできた由羅は逆に西国王の美貌に魅せられ、あからさまに秋波を送っていた。
このまま、父、豺牙の狙い通りに事が進めば由羅の望みが現実となる可能性は高い。
妖界でも最大領土を誇る大国、西国の王、その妃ともなれば誰もが傅(かしず)き、どんな贅沢も我が儘(まま)も思いのままである。
それは、まさしく由羅が思い描いてきた栄耀栄華に満ち溢れた未来そのものと言っていい。
殺生丸の傍(かたわ)らに妃(きさき)として寄り添う己(おの)がの姿を想像して由羅は独り悦に入っていた。
由羅が白昼夢に浸っている最中(さなか)、周囲がザワザワと騒ぎ出した。
見れば、皆、空を仰ぎ見ている。
不思議に思って視線を空にやれば、静々(しずしず)とこちらに近付いてくる一群が目に入った。
遠目にも一群が煌びやかな女性(にょしょう)の集団とハッキリ判る。
中央の牛車を守るように十数名の女房衆が周囲に控えている。
それは、今回、誰もが出席するとは予想しなかった西国一の貴婦人、前西国王妃にして当代西国王である殺生丸の御生母さま、狗姫(いぬき)の御方の御一行だった。


【直垂(ひたたれ)】::「犬夜叉」コミックス13巻に登場する若殿、人見蔭刀(ひとみかげわき)殿(=奈落)の城内での衣裳を参考にして下さい。


※『錦繍事変(きんしゅうじへん)③』に続く

 

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