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執務室を飛び出した殺生丸は厩(うまや)へと急いだ。
一瞬、自力で人界まで飛んでいこうかと考えもした。
しかし、阿吽を使う方が格段に速いし体力も温存できる。
城の中庭に位置する厩(うまや)の前で毛皮にしがみ付いていた邪見を振るい落とす。
小柄な従者は軽く目を回しているようだ。
だが、そんな事は意に介さない。
急いでいるのだ。
容赦なく蹴り飛ばして用を言い付けた。
「邪見、阿吽に鐙(あぶみ)と鞍を置け」
「ハッ、ハイィッ!」
こけつまろびつ厩に向かう従者を無表情に見やる。
阿吽のような巨体に小さな邪見が馬具を着けるのは容易ではなかろうが、幸い、厩舎には馬番がいたらしい。
直(ただ)ちに鐙と鞍を乗せられた阿吽が厩から引き出されてきた。
ヒラリと双頭竜に跨(またが)り、即、飛び立つ。
こちらが命じるまでもなく行き先が判っているのだろう。
阿吽は迷うことなく人界に向かって最高速度で飛んでいく。
殺生丸は双頭竜を駆りつつ思考を巡らした。
(あの桜の花は紛れもなく桜神老のものだった・・・そして花びらに混じって香ってきたのは・・・りんの匂い)
(フン、りんを持て成しているからお前も来い・・か・・・如何にも・・・あのご老体のやりそうなことだ)
「せっ、殺生丸さま、りんの許へ行くのでございますか?」
邪見が阿吽の尻尾にしがみついた体勢のまま訊いてきた。
「・・・・・」
確かに、りんの居る処に向かってはいるが、何時もの村ではない。
無言のままでいると、こういう時だけ妙に勘の良い邪見が、再度、尋ねてきた。
「違うのでございますか。では、どちらへ?」
「・・・・桜神老(おうじんろう)」
一言だけ殺生丸は答えた。
これだけで邪見には大方の推測がつく。
殺生丸の従者は頭が鈍くては務まらない。
極端に少ない主の言葉から可能な限り心中を推察し事態を把握しなければならないのだ。
その点、邪見は優秀だった。
一言多い性格が玉に瑕(きず)だが。
阿吽を駆けさせること一時(約二時間)、桜神老の樹が見えてきた。
樹の下では犬夜叉と仲間どもが浮かれ騒いでいる。
異母弟の連れどもに目をやるが、りんは見当たらない。
言うまでもなく、桜神老の結界の中に居るのだろう。
(フッ、相変わらず姦しい奴らだ)
少し離れた場所に阿吽を降下させる。
目ざとく犬夜叉が兄の匂いに気付き視線を寄こしたが気にする必要もないと思ったらしい。
また、仲間達に視線を戻した。
殺生丸は、そのまま地上からス———ッと浮き上がり満開の桜の上に立った。
すると、何もない筈の足元の空間が揺らめいた。
ポッカリと穴が開く。
結界だ。
殺生丸が足を踏み入れると、そのまま内部に引き入れられるように沈んでいく。
大妖の姿が完全に呑み込まれると、また静かに結界が閉じた。
強大な妖気が周囲の場を圧する。
殺生丸の発する凛冽な妖気が結界内にヒシヒシと伝わっていく。
小物の妖怪なら、その尋常ならざる妖気に恐れ戦(おのの)き裸足で逃げだすだろう。。
桜神老が、りんに殺生丸の到着を告げる。
「りん、どうやら、そなたの待ち人が着いたようだ」
「エッ、もしかして・・・・殺生丸さまが?」
「ウム、程なく此処までやって来よう。フフッ、相変わらず何と気の短い」
待つ程もなく殺生丸が現れた。
桜神老に取っては、ほぼ二百年ぶりの再会であった。
脳裏に少年の頃の殺生丸を思い浮かべ今現在の殺生丸とを見比べる。
(ホォッ・・・・これは中々。最後に逢った時は、まだまだ少年の域を出なんだが。闘牙亡き後、西国を出奔し、随分、荒れたと聞いておったがな。フム、見事に成長したものよ)
お気に入りの孫を眺めるように桜神老は目を細めた。
「殺生丸さまっ!」
りんが喜色満面で叫んだ。
頬に赤味が増し瞳が輝く。
満開の桜にも負けない笑顔だ。
「りん・・・・桜神老」
まず、りんに、それから、己を此処まで呼んだ樹仙に目をやる殺生丸であった。
「久しいな、殺生丸。かれこれ二百年ぶりになるかな。どれ、まずは一献(いっこん)傾けようぞ」
桜神老が笏(しゃく)を軽く一振りした。
後方に控えていた桜の女房衆が今度は霊酒と酒器を載せた膳を捧げ持っている。
りんの隣に座った殺生丸が盃を取った。
馥郁(ふくいく)たる香りの酒が注がれる。
霊酒を、一口、味わった殺生丸が呟(つぶや)く。
「・・・・霊妙な味だな」
「フォッフォッ、さもあろう。仙界の神泉苑にて造られた御神酒(おみき)じゃ。これ、客人に舞を」
桜神老の言葉に応えて桜の女房衆が舞を始めた。
舞にあわせて何処からともなく笙(しょう)やひちりき、竜笛(りゅうてき)の音(ね)が聞こえてくる。
翻(ひるがえ)る濃淡の違う桜色の十二単、ユラユラと揺れる冠に飾った桜。
それは見る者をして夢かと思わせる幽玄な美しさに満ちた舞だった。
【霊妙】:人知では計り知れない程、優れていること。
【笙(しょう)】:雅楽に用いる管弦楽の一つ。吹き口のある壺に七本の竹の管を環状に並べたもの。笙の笛。
【ひちりき】:雅楽用の管弦の一種。中国から伝来した竹製のたて笛で表に七つ、裏に二つの指穴がある。音は高音で哀調を帯びる。
【竜笛(りゅうてき)】:雅楽に使われる横笛。詳しくは作品『竜笛』を参照。
※『神代櫻(じんだいざくら)④』に続く
世の中に 絶えて桜の なかりせば、春の心は のどけからまし
在原業平(ありわらのなりひら) 古今和歌集より出典
桜ほど人騒がせな花はない。
明日は咲くか、今日こそ咲くかと気を揉ませ、咲けば咲いたで満開の時を待ち焦がれる。
おまけに散り始めれば、一層、心を惑わされるのだ。
風に花が舞い雪のように地面を覆い尽くす時、まざまざと思い知らされる、この世の無常。
完全に花が散り終えた後でさえ次の年の花に思いを馳せる。
何と罪作りな花だろう。
いっそ、この世に桜が無ければ、どんなにか春の人の心は、のどかであろうに・・・・。
いみじくも古(いにしえ)の歌人が詠んだ桜への尽きせぬ思い。
今も昔も日本人は桜を愛してやまない。
神代(かみよ)の昔から咲くと云われる桜がある。
その桜は千年以上の長きにわたり咲き続けてきた驚異の生命力を誇る。
何時しか人は畏敬の念をもって、その長寿の桜を『神代櫻(じんだいざくら)』と呼ぶようになった。
樹木は千年を超えると仙気を帯びる。
神代櫻は二千年もの樹齢を数える桜の中の桜である。
神の如き桜に相応しく樹仙の名は桜神老(おうじんろう)と云う。
楓の村から山ひとつ隔(へだ)てた小高い丘に、その桜の巨木は存在した。
かごめの居ない三年間、何となく浮かれ騒ぐのを誡(いまし)める気持ちが仲間内にあった。
知らず知らず犬夜叉の気持ちを慮(おもんぱか)ったのだ。
だが、つい先日、かごめが戻ってきた。
浮き立つような気持ちが、自然、周囲に伝染し始めたのだろう。
狐妖術試験から帰ってきた七宝が、偶然、見かけた巨大な桜の話を始めた。
「おら、こないだ村に帰ってくる途中で凄い桜の樹を見つけたんじゃ。怖ろしくデッカイ樹でな。もう、チラホラと花が咲き始めておった」
「七宝、それは山ひとつ越えた丘の上の桜ではないか」
「知っとるのか、楓」
「アア、あの桜を近在で知らぬ者はない。何でも神代(かみよ)の時代から咲いていたそうでな。付いた名前が、これまた凄い。神代櫻(じんだいざくら)と云うのだ。言伝(いいつた)えによると樹齢は二千年に達するらしい」
「凄~~~い。二千年も生きてるんですか、その桜」
りんが驚嘆する。
「神代櫻(じんだいざくら)ですか。名前からして神々(こうごう)しいですな。さぞ見事な桜なのでしょうな。どうです、かごめさまが戻ってこられた御祝いに、皆で、その桜を見に行きませんか」
早速、弥勒が花見を思いついた。
「行こう、行こう、久し振りに、みんな、揃ったんじゃ。ご馳走を一杯持って桜を見に行こう」
お祭り好きの七宝が、はしゃいで誘いに乗った。
「ケッ、てめえら、要は騒ぎたいだけじゃねえのか」
犬夜叉の憎まれ口を新婚ホヤホヤのかごめが咎(とが)める。
「もう、犬夜叉ったら、そんな口を利(き)かないの。でも、花見か、良いわねぇ~~。どう、珊瑚ちゃん?」
「良いねえ、七宝のいう通りに、ご馳走作って、みんなで出かけようよ」
珊瑚もスッカリ乗り気になった。
これで話は決まった。
桜が満開になる頃を見計らって出かける事となった。
三日後の早朝、一行は出立した。
この処、天候は穏やかで陽気も良い。
絶好の花見日和だ。
近頃、足が弱ってきた楓は馬に乗り、横には孫娘のようなりんが付き添う。
それに新婚の犬夜叉とかごめ、子供連れの弥勒と珊瑚夫婦、七宝といった顔触れだ。
総勢十名の大所帯である。
昼近くなって一行は目的地に着いた。
山ひとつ越えた小高い丘は瑞々しい早緑(さみどり)に覆われていた。
その丘を覆い隠すかのようにフンワリと薄紅色の花の雲が拡がっている。
何と巨大な桜だろう。
圧倒的な存在感が見る者をして打ちのめす。
幹回りの太さといったら大の大人が五人がかりで手を伸ばしても抱えきれないのではないだろか。
ゴツゴツした極太の幹が物語る二千年の歳月と風雪。
幹から張り出した枝が四方八方に伸びている。
その枝を滴(したた)るような満開の花が飾る。
一行は桜の樹の根元に茣蓙(ござ)を敷いて腰を落ち着けた。
下から見上げるとスッポリと花の天蓋(てんがい)に包まれているような錯覚を起こさせる。
「綺麗ねぇ~~~天国みたい」
ホォ~~ッと溜め息をついて、かごめが桜を褒めそやす。
「本当だね、こんな見事な桜は見たことが無いよ」
珊瑚も、かごめに同意する。
「何ともはや・・・・この美しさには言葉もありませんな。神代(かみよ)の昔から咲く桜、それ故に付いた名前が『神代櫻(じんだいざくら)』ですか 。イヤ、全く、古今無双の美しさとは、この事ですな、楓さま」
感に堪(た)えぬような弥勒の言葉に楓が応える。
「法師殿、この桜には神が住まうと云われておるのだよ。それもさもありなん。二千年もの時を生きてきた樹だ。神と呼ばれるに相応しい」
「そうですね、神気が漂ってます。何とも厳(おごそ)かな、それでいて、至福を感じさせるこの霊気は・・・・」
途切れた弥勒の言葉を楓が続ける。
「桜が樹にして花だからだろう。この樹に宿るは樹仙であり同時に花仙でもあるのだからな」
「・・・・・そうですか」
弥勒は思わず手を合わせた。
桜の神気に打たれ合掌せずにいられなかったのだ。
見れば楓も桜を見上げて同じように手を合わせている。
ハラハラと散る薄紅色の花弁が例(たと)えようもなく美しい。
まるで夢の中に佇(たたず)んでいるかのような思いさえしてくる情景であった。
そんな弥勒や楓達に比べ花より団子の犬夜叉や七宝は、専(もっぱ)ら、桜よりもご馳走に目がいっていた。
竹篭に盛られた珊瑚とかごめの心づくしの弁当に、早速、手を出して口一杯に頬張っている。
弥勒と珊瑚の双子の娘たち、茜(あかね)や紅(くれない)も同様だ。
唯、りんだけは言葉もなく桜に見入っていた。
サァッ・・・・一陣の風が花を散らし吹きぬけた。
りんの姿は掻き消えていた。
だが、誰も気付かない。
皆、花の宴に酔い痴れていた。
※『神代櫻(じんだいざくら)②』に続く