『神代櫻(じんだいさくら)②』 りんの前に薄紅色の狩衣(かりぎぬ)を着た老人が立っていた。 立烏帽子(たてえぼし)を被り右手には笏(しゃく)を持っている。 髪も髭(ひげ)も薄紅色で長く地を這っている。 何と高雅で深遠な気を纏(まと)った老人であろう。 思わず、りんは目をパチクリさせて辺りを見回した。 つい先程まで確かに桜を見上げていたはずなのに・・・。 何時の間にか、りんは柔らかな桜色の毛氈(もうせん)の上に座っていた。 薄紅色の御簾、記帳、畳、何もかもが桜一色の室内だった。 (ここ、何処だろう? それに、このお爺さんは?) りんの訝(いぶか)しむ気持ちを察したのか、老人が口を開いた。 柔らかく艶のある声が耳に心地よく響く。 「驚かせて済まぬ。だが、闘牙王の嫡子、殺生丸の心を捉えたという娘を、どうしても間近で見たくてな」 「お爺さん、殺生丸さまを知ってるの?」 りんが驚いて老人に尋ねる。 「フォッフォッ、あ奴が、まだ襁褓(むつき)をしていた頃から知っておるぞ」 「えっ、そうなの、凄~~い。アッ、もしかして、お爺さん、桜の精なの?あの朴(ほお)の木のお爺さんみたいに」 「朴仙翁(ぼくせんおう)のことか。アア、奴との付き合いは長い。わしは桜神老(おうじんろう)と云ってな。この神代櫻の樹仙じゃ」 老人がパンパンと軽く手を叩いた。 すると桜色の十二単(じゅうにひとえ)を着た女房衆が五名、何処からともなく現われた。 五名とも桜を飾った冠を被っている。 みな、同じ桜かと思いきや、良く見ると、それぞれ花の色、花弁の形状が微妙に違う。 色は殆ど白に近い色から濃い薄紅色まで、花弁はキリッとした一重からポンと愛らしい毬のような八重までと変化に富んでいる。 桜の女房衆は、それぞれ、美味しそうなご馳走を盛った膳を手にしている。 そして、りんの前に膳を置いてから静々(しずしず)と後ろに下がって控えた。 「ささっ、腹が空いておろう。そなたの為に用意させた馳走じゃ。遠慮なく食べるがいい」 「はいっ、アッ、でも、桜神老(おうじんろう)さま、楓さまと犬夜叉さま、それに、かごめさまや他の人達は?」 「あの者たちは、それぞれ下で楽しくやっておる。心配せずとも良い」 りんが桜神老の歓待を受けていた頃、一陣の風が西国を目指していた。 風の内部では桜の花弁が舞い飛んでいるので端から眺めると桜色の帯のように見える。 猛烈な速さで桜色の帯が無色の風の中から抜け出していく。 あたかも意志を持っているかのようである。 その風の名は小旋風、東風(こち)、春先に東方から吹く風である。 東風は人界と妖界の間にある結界をも易々(やすやす)と飛び越え西国の城下に入った。 目指す先は西国城、妖界きっての山のように巨大な城である。 天守閣に城主、西国王、殺生丸の執務室がある。 簡素だが居心地の良い書院作りの部屋の中、一際、豪奢な主が政務を執っていた。 長い白銀の髪、金色の眸(ひとみ)、月の光のように玲瓏な美貌である。 その美貌を更に際立たせようというのか。 額には月の徴(しるし)、頬には朱の妖線が二筋走る。 そして、最後の仕上げとばかりに豊かな白銀の毛皮が右肩から流れている。 生半可な美女では、到底、太刀打ちできないような美丈夫である。 尤も、当人は、そんな事に全く頓着しないのであるが。 西国王の机の真横には壱の従者、邪見が、前方には尾洲と万丈、先代からの重臣が控えている。 因(ちな)みに両名は、以前、殺生丸の守役も務めていた。 中肉中背の尾洲は金茶の髪に青い目、一方の万丈は漆黒の髪に琥珀色の目で大柄な体躯である。 更に尾洲と万丈の後方に控えるのは万丈の息子、木賊(とくさ)と尾洲の息子、藍生(あいおい)。 両名とも似たような背格好ではあるが、容貌は木賊が灰色の髪に緑の目、藍生は栗色の髪に明るい水色の目と、これまた、親達同様に全く対照的であった。 木賊と藍生は殺生丸が西国に帰還すると同時に取り立てられた側近である。 不意に開け放たれた障子窓から突風が飛び込んできた。 ブワッ・・・・風は瞬時に拡散し通り抜けていった。 部屋中に撒き散らされた夥(おびただ)しい薄紅色の花弁。 次の瞬間、尾洲と万丈の目に映ったのは風のように駆け抜けていく若き主君の姿。 豪奢な白銀の毛皮には矮小な従者が振り落とされまいと必死にしがみ付いていた。 「大殿!」「お館さま!」 木賊と藍生が矢継早(やつぎばや)に叫ぶ。 「放っておけ」「・・・・仕方なかろう」 事情が判らず騒ぎ立てる息子達に比べ親達の方は落ち着いたものである。 「しかし、父上・・・」 得心がいかず口を開こうとした木賊に万丈が重々しい声で答える。 「桜の御老公が若を呼ばれたのだ」 「あの御方に呼ばれたとあっては何をさて置いても駆け付けねばなるまい」 尾洲も万丈の言葉を肯定する。 「桜の御老公・・・・もしや、桜神老(おうじんろう)様のことですか」 木賊が幡(はた)と気付いた。 その言葉に藍生も主君の失踪の理由に思い当たった。 執務室に散らばる薄紅色の桜の花弁と香り、それに混じって香るほのかな人の仔の匂い。 尾洲と万丈が顔を見合わせ申し合わせたように呟(つぶや)く。 「どうやら桜の御老公は若の人間の姫を持て成しておられるようだな」 「・・・・これでは矢も盾もたまらず若が飛び出していかれたのも道理」 【御】:漢語について種々の敬意を表す。「—活躍」「—無礼」「—飯」など。 【老公】:年老いた貴人の敬称。 ※『神代桜(じんだいざくら)③』に続く [3回]PR